
あらすじ
学問を修め、品性を磨いて自身の人格を高めていくという教育方針の中で育った有島武郎は、西洋風の教育を受け、ミッションスクールで西洋思想を身につけました。 学習院を経て進学した札幌農学校において、友人に感化されキリスト教に入信し、自身の内側を省みる傾向を深めました。 しかし、その後アメリカに渡った際に戦争に遭遇したことでキリスト教信仰に疑念を抱くようになりました。そして棄教したのち、文学に自己表現の可能性を見出すようになり、志賀直哉らと共に雑誌「白樺」の創刊に参加ました。 彼の小説の作風は、人種や国籍を問わず人間性を重んじる人道主義的な当時の文学界で注目を集めました。小説や戯曲、評論だけでなく童話作品も発表しており、幼少時代の体験をもとに子どもの内面に迫った『一房の葡萄』は、雑誌「赤い鳥」に掲載されました。 またこの『一房の葡萄』は、自ら装幀、挿画を手掛けており、彼の3人の子どもに向けて献辞が捧げられています。 新橋を渡る時、発車を知らせる二番目の鈴が、霧とまではいえない九月の朝の、煙った空気に包まれて聞こえて来た。葉子は平気でそれを聞いたが、車夫は宙を飛んだ。 そして車が、鶴屋という町のかどの宿屋を曲がって、いつでも人馬の群がるあの共同井戸のあたりを駆けぬける時、停車場の入り口の大戸をしめようとする駅夫と争いながら、八分がたしまりかかった戸の所に突っ立ってこっちを見まもっている青年の姿を見た。 「まあおそくなってすみませんでした事……まだ間に合いますかしら」 と葉子がいいながら階段をのぼると、青年は粗末な麦稈帽子をちょっと脱いで、黙ったまま青い切符を渡した。 「おやなぜ一等になさらなかったの。そうしないといけないわけがあるからかえてくださいましな」 といおうとしたけれども、火がつくばかりに駅夫がせき立てるので、葉子は黙ったまま青年とならんで小刻みな足どりで、たった一つだけあいている改札口へと急いだ。 改札はこの二人の乗客を苦々しげに見やりながら、左手を延ばして待っていた……